1989年のF1世界選手権
![]() 1989年のF1世界選手権(1989ねんのエフワンせかいせんしゅけん)は、FIAフォーミュラ1世界選手権の第40回大会である。1989年3月26日にブラジルで開幕し、11月5日にオーストラリアで開催される最終戦まで、全16戦で争われた。 シーズン概要![]() 1989年のチャンピオンシップは、アラン・プロストとアイルトン・セナのマクラーレン・ホンダ勢同士で争われ、最終的にはプロストが3度目のチャンピオンを獲得した。ただし、両者の確執が露呈した結果、決定劇は鈴鹿における両者の接触という後味の悪いものだった。 勝利数ではプロストの4勝に対しセナは6勝と上回り、また双方が完走したレースにおいてセナがプロストの後塵を拝したのは、開幕戦ブラジルGPのみだった。しかし、6勝以外の入賞が2位1回のみだったセナに対し、プロストは2位6回などシーズンを通して安定、これが両者の明暗を分ける結果となった。 コンストラクターズ争いでは、プロストとセナで計10勝、4度の1-2フィニッシュを記録したマクラーレン・ホンダが圧倒。2位にはマクラーレンに2倍近い差を付けられたものの、リカルド・パトレーゼがランク3位、ティエリー・ブーツェンがランク5位となったウィリアムズ・ルノーが入った。3位はフェラーリ、4位はベネトン・フォードであり、1980年代末から1990年代前半を象徴するとされる4チームが揃って四強入りした。 往年の名ドライバー・ルネ・アルヌー、アメリカ人最多F1出走記録保持者のエディ・チーバー、「フライング・ドクター」ことジョナサン・パーマーなどが、この年をもってF1を去る。一方、ベルトラン・ガショー、エリック・ベルナール、J.J.レート、逆に後に優勝も経験するジョニー・ハーバート、ジャン・アレジらがこの年のデビューを果たした。コンストラクターではブラバムが1年の休養を経て復帰。このシーズンから新規参入するオニクスが、第13戦ポルトガルGPでステファン・ヨハンソンが3位に入り、チーム初(及び最初で最後)の表彰台をもたらした。ザクスピード、リアルがシーズン終了後に撤退した。 ターボ禁止レギュレーションによりターボエンジンが完全に禁止され、全車が3,500cc以下の自然吸気エンジンを使用することとなった。ホンダとルノーはV型10気筒、フェラーリはV型12気筒を採用した。コスワースはDFRの市販を開始するとともに、第7戦フランスGPでベネトンが新車B189を投入したことに併せ、新しいV型8気筒エンジンのHBを投入した。 ピレリタイヤピレリタイヤが3年ぶりにF1復帰。これにより、グッドイヤーとのタイヤ戦争が再発した。 39台参戦![]() オニクスが新たに参戦した他、昨年1台参戦であったスクーデリア・イタリアやオゼッラ、リアルなどが2台体制に変更したことから、近年にない39台が参戦した。 予備予選新規参戦チームや下位チームが本予選へ出場する権利を争うべく、1988年は金曜日の第一フリー走行と兼ねる形で行われていた予備予選だが、1989年は39台もの参戦台数となり、専用セッションが設けられた。 初日の最初のフリー走行の前に行われ、基本的に午前8時から9時の1時間とされた。予選への出走台数は合計30台とされ、予備予選を免除されるのは26台とされていたため、予備予選には13台が出走し、上位4台のみ(開幕戦ブラジルのみ、AGSが1台での参戦としたため5台)が本予選に進出することとなった。シーズン前半の成績により、後半の対象チームは入れ替わる方式だった。 開催地及び勝者エントリーリスト
ドライバー変更
1989年のドライバーズランキング
1989年のコンストラクターズランキング
シーズン詳細
→詳細は「1989年ブラジルグランプリ」を参照
→詳細は「1989年サンマリノグランプリ」を参照
→詳細は「1989年メキシコグランプリ」を参照
→詳細は「1989年カナダグランプリ」を参照
→詳細は「1989年フランスグランプリ」を参照
→詳細は「1989年イギリスグランプリ」を参照
→詳細は「1989年ハンガリーグランプリ」を参照
→詳細は「1989年ポルトガルグランプリ」を参照
→詳細は「1989年日本グランプリ (4輪)」を参照
→詳細は「1989年オーストラリアグランプリ」を参照
トピック
参照外部リンクInformation related to 1989年のF1世界選手権 |
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