エデッサの戦い。新興勢力のサーサーン朝ペルシアがローマ帝国に勝利した。画像はナクシュ・イ・ルスタムの磨崖像で、平伏するローマ皇帝ウァレリアヌスと騎乗のサーサーン朝皇帝シャープール1世が浮き彫りにされている。
軍人皇帝時代。ローマ帝国全体の政情が不安定となり、半世紀に20人余の皇帝が乱立される混乱期を迎え外敵の侵攻も勢いを増した。画像は「グランデ・ルドヴィシの石棺(英語版)(ローマ国立博物館アルテンプス宮蔵)」でローマ人とゲルマン人の闘いが彫刻されている。被葬者は軍人皇帝デキウスの息子とされている。
3世紀(さんせいき)は、西暦200年から西暦300年までの100年間を指す世紀。
できごと
三国時代。後漢の滅亡とともに各地で群雄が相争う時代に突入した。今日でも人気の高い小説『三国志演義』の舞台として有名である。
蜀の劉備とその義兄弟。漢王室の末裔とされる劉備とその同志たちは三国時代の群雄のうちでも知名度が高い。画像は一堂に会した劉備・関羽・張飛を描いた18世紀の画家桜井雪館の絵画(シカゴのフィールド自然史博物館蔵)。
竹林の七賢。魏から晋にかけての政治的な混乱から遠ざかり清談をした人々で後世の中国の知識人のモデルともなった。画像は室町時代の日本の絵画。
古越州青磁の展開。三国時代から西晋にかけて複雑な意匠を伴う明器としての青磁が江南各地(浙江省・江蘇省)で製造された。画像は上海博物館所蔵の青磁神亭壺(穀倉罐)で壺の上部にある楼閣や人物像に特色がある。
箸墓古墳。日本最古級の古墳で倭迹迹日百襲姫命の墓との伝承がある。また邪馬台国畿内説では卑弥呼の墓に比定する考えもある。2013年に国の史跡に認定された纏向遺跡の範囲に含まれることから近年俄然注目を集めている。
ミーラン遺跡。タクラマカン砂漠の南方に位置し、西域南道のオアシス都市として各地の文化が混交した。画像はミーランの仏教寺院遺跡にあった「有翼天使」の壁画でローマ的な顔立ちが特徴的である。
パルミラ遺跡の列柱道路。パルミラ女王ゼノビアはローマの混乱に乗じて自立したが、アウレリアヌス帝によって滅ぼされた。
ドゥラ・エウロポス遺跡。ローマ帝国東端の要塞都市で257年にサーサーン朝に占領され廃墟となった。画像はこの地にあったユダヤ教のシナゴーグの壁画「モーセと燃える柴」。
カラカラ浴場。ローマ市民にとって公衆浴場とは、温浴やサウナを提供するばかりでなく、娯楽施設として生活に憩いをもたらすものでもあった。歴代のローマ皇帝は自らの名を冠した浴場を新設することで人々の支持を得ていた。
コロニア・アグリッピネンシス(ケルン)。ローマ帝国内での属州各地の地位の上昇とともにガリアでも独立政権が生まれ(ガリア帝国)、この地がその首都となった。画像は220-230年代に作られた「ディオニソスのモザイク」で、ケルンのローマ・ゲルマン博物館(英語版)に所蔵されている。
ヴェネツィアにあるテトラルキア(四分割統治)の像。ディオクレティアヌスによりローマ帝国は正帝2人と副帝2人の計4人で統治されることになった。
200年代
210年代
220年代
230年代
- 230年 - ゾロアスター教がサーサーン朝の国教となる。
- 234年 - 五丈原の戦いで蜀の諸葛亮と魏の司馬懿が交戦。途上で諸葛亮が陣没し司馬懿は軍を退却させる。
- 235年 - アレクサンデル・セウェルスがマインツ(モゴンティアークム)で暗殺されセウェルス朝が断絶。
- 238年
- 239年
- 倭の女王卑弥呼が帯方郡に使者を送り、魏の明帝への奉献を願う。
- 帯方郡の太守である劉夏は使者を魏の洛陽へ送る。
- 明帝は詔して、卑弥呼を「親魏倭王」とし、金印紫綬・銅鏡100枚を授ける(魏の景初三年『三国志』魏書・東夷伝)。
240年代
- 243年 - 倭王が魏に使者を送り、生ロ・倭錦などを献じる(魏の正始4年、『三国志』魏書・小帝紀、同東夷伝)。
- 244年
- 245年 - 魏の少帝、倭の大夫に黄幢を授け、帯方郡を通じて伝授させることとする(魏の正始六年、『三国志』魏書・東夷伝)。
- 247年
- 倭の女王卑弥呼、倭の使者を帯方郡に遣わし、狗奴国との交戦を告げる。魏は、使者を倭に派遣し、詔書・黄幢を倭の大夫に与え、檄をつくって告喩する(魏の正始八年、『三国志』魏書・東夷伝)。
- 康居出身の康僧会が呉の建業に入り、孫権の支持を得て江南地方で最初の仏教寺院の建初寺を建立する。
- 248年
- ローマ皇帝ピリップス・アラブスによるローマ建国一千年祭が行われる。
- 呉の支配に対しベトナムで趙氏貞(趙嫗)の反乱が起こるが鎮圧される。
- 248年頃 - この頃、女王卑弥呼死す。その後、卑弥呼の宗女・壱与(または台与)が女王となる。
- 249年
250年代
- 250年
- 250年頃
- 251年
- 255年
- 257年
- 258年
260年代
- 260年
- 261年
- ウァレリアヌス帝の共同皇帝だった息子のガッリエヌスが単独皇帝となり、キリスト教寛容令を発布。
- 鮮卑索頭部の拓跋力微が魏に入貢する。
- 262年 - アナトリア半島西南部の大地震で、エフェソスが大破する。
- 263年 - 魏が蜀を滅ぼす(蜀漢の滅亡)。魏の司馬昭が晋公となる。
- 263年 - 276年 - ローマ帝国の属州ガラエキア(現スペインのガリシア地方)のルーゴの城壁が築かれる。
- 264年 - 鍾会の乱。魏の司馬昭が晋王となる。
- 265年 - 魏の元帝の禅譲を受け、司馬炎が西晋の初代皇帝(武帝)となる( - 316年)。
- 266年 - 倭の女王が晋に使節を派遣する(『日本書紀』の神功紀66条に引く晋起居注。『晋書』武帝紀、西晋の泰始二年)。
- 267年 - パルミラ王国の実権を女王ゼノビアが掌握する。
- 268年 - 西晋が泰始律令を公布する。これは体系的な統一法典としての最初の律令。
- 268年/269年 - ナイススの戦いでクラウディウス・ゴティクス帝がゴート人に勝利しバルカン半島を制圧。
- 269年 - ウァレンティアヌス(聖ヴァレンタイン)がクラウディウス・ゴティクス帝の迫害を受けて刑死。
270年代
- 270年 - パルミラのエジプト征服。
- 271年
- 273年 - ローマ皇帝アウレリアヌスがパルミラ王国を征服。
- 274年 - ローマ皇帝アウレリアヌス帝がガリア帝国を征服し、ローマ帝国の再統一を達成。
- アウレリアヌス帝は凱旋式で元老院から「帝国の再建者」の称号を授与される。
- アウレリアヌス帝はローマに「不敗太陽神(ソル・インウィクトゥス)」の神殿を建立する。
- 275年 - サーサーン朝遠征途上のアウレリアヌス帝が暗殺される。
- 276年頃 - サーサーン朝のバハラーム2世の命で宗教家マニが捕縛され処刑されたか。
280年代
- 280年 - 西晋が呉を滅ぼし中国を統一する。
- 281年 - 戦国時代の魏の襄王の陵墓が盗掘され、『汲冢書』と呼ばれる竹簡75篇が発見される。
- 284年
290年代
- 291年 - 晋で八王の乱が起こる(- 306年)。
- 292年 - グアテマラのティカルの記念碑29号に暦日が記録される。この時期よりマヤ古典期が始まる。
- 293年
- ディオクレティアヌスがローマ帝国のテトラルキア(四分割統治)を始める。
- 297年
300年代
- 300年頃 - ローマ皇帝ディオクレティアヌスにより「カピタティオ・ユガティオ(土地税・人頭税)」の再編がなされる。
- 3世紀末
出土品の記録
- 238年 - 呉の「赤烏元年(238)」の紀年銘を持つ画面帯神獣鏡出土する(山梨県西八木郡鳥居原きつね塚古墳)。
- 239年 - 「景初三年」の紀年銘を持つ神獣鏡が、大阪府和泉市の和泉黄金塚古墳と島根県大原郡の神原古墳から出土している。
- 240年 - 「□始元年」の紀年銘を持つ三角縁神獣鏡が、出土する(群馬県高崎市の芝崎古墳と兵庫県豊岡市森尾古墳)。
- 244年 - 「□烏七年」の紀年銘を持つ画文帯神獣鏡が、兵庫県宝塚市の安倉古墳から出土している(呉の赤烏七年)。
文化
人物
地中海世界
ペルシア
インド
東アジア
後漢
魏
蜀
呉
西晋
日本
新羅征伐を前に釣り占いをする神功皇后と武内宿祢
架空のできごと
- 222年 - 魏の曹操の息子である曹植は都から帰る途中、華北を流れる洛水のほとりで、川の女神(洛神)に出会い恋に落ちる。女神の美しさは比類なく、二人の間に愛が育まれるも、人と神は結ばれない定め、永遠の愛を誓いつつ女神は天上に去っていった(曹植『洛神賦』、この詩をもとにした顧愷之の絵画「洛神賦図」も有名)。
- 284年 - 305年 - ローマ皇帝ディオクレティアヌスの治世に、帝国の軍事行政官であったマルコ・フラミニウス・ルーフスはテーバイの庭園で出会った謎の男から「不死の人の街」と「不死の川」の話を聞き、それらを探すべく旅立つ(ホルヘ・ルイス・ボルヘス『不死の人』)。
- 3世紀頃 - オシアンはスコットランド高地地方およびアイルランドに居住した古代ケルト人の英雄フィン(またはフィンガル)の子で、タラの宮廷に仕えた勇者であったが、彼の名を高めたのはこの時代を歌った叙事詩であった。18世紀に至りスコットランドの詩人マクファーソンが、民間に伝わるオシアンの詩をゲール語から英訳した(『フィンガル』『テモラ』を代表とする一連のオシアンの叙事詩はマクファーソンが大幅に手を入れた創作とされている)。
関連項目
外部リンク
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